今日は定休日ですが、気にして下さる方もいらっしゃるので……
もう、あれから9年目に突入ではございますが、少しだけお話でも。
私達家族は兄を除いて、東日本大震災をきっかけに福島県から滋賀県へ来ました。
当時は地震と共にライフラインが全滅、携帯も繋がらない。
ラジオだけが聞こえ、各地の被害は、なんとなく酷い状況なのかも……という曖昧な思いでおりました。
避難のきっかけは、翌朝、中学生の男の子が自転車に乗り、「避難してくださーい!」と叫びながら回っていた事で、家族でおや?と思い、一応隣村へと非難してみるかと、どうせ数日で帰れるよねと甘い考えて家を出ました。
一歩外へ出ると、車の長蛇の列。普段なら30分そこそこで行ける隣村へは、5時間近くかかった記憶があります。
しかし、そこで初めて原発の情報を得ました。
運よく巡り巡って、小学校へ避難でき、父の絵画教室の生徒さんや母の会社の繋がりの方、私は友人とも出会え、少しだけホッとしたのを覚えています。
けれど、原発の影響もあり、いよいよ避難先も危ないかもという噂が流れ……指示を待ち全体で動くか、ここで知人たちとは別れ、家族だけで動くかを迫られ、私達家族は、小学校を後にする事を決断しました。
最初に空港に行き、長蛇の列にチケットが3人分は手に入らず、車を乗り捨て、タクシーで母の会社の同僚のお陰で鬼怒川へ。
そこで久しぶりのお風呂に入る事が出来、少しだけ休憩……
始めは、そこから千葉県にいる兄を頼る予定でした。
ですが、千葉県も色々と被害が多く、せっかくならと、叔母夫婦が住む滋賀県へ……
その頃の私は、とにかく誰でも良いから、他人ではなく身内に会いたかったのです。
普通に笑ったりもしていましたが、内心は、孤独感に苛まれ、不安で不安で仕方ありませんでした。
鬼怒川を出て、宇都宮から東京へ……小学校で明日をも分からず座って過ごしていた環境から、東京の、当たり前に仕事に向かう人混みの中に入った時の気持ち悪さ。
自分の気持ちが取り残されたような、置き去りにされた感覚は、今でも忘れません。
日々、天災や事件など、テレビを通して見ている側と、実際に被害を受けた側の温度差に改めて気付かされました。
そうして無事滋賀県に来る事ができ、様々な出会いや厚意を経て、こうしてお店を営むまでになるのでした。
色々と端折ってしまいましたが(笑)
もちろん、それまでには色々な事がありました。福島の自宅は泥棒に入られ、屋内が酷い状態であった事。出会いと別れ。両親がガンになってしまった事。
それでも一番に思うのは、両親とも、前向きであったこと。
父母の同年代の方は、やはり地元が大切で、いつか復興される事を願って、現地に留まる決意をした方が多いです。
私の父は障害者で持病も多く、半身麻痺で長時間歩く事も出来ない人です。
それでも、私が言うよりも早く、他県へ渡る事、そしてこちらに来てからは、ここで骨を埋める事を決断したのは、父でした。
毎日毎日、奪われた事を恨むのではなく(きっと相当の覚悟があったのでしょうが)、早く落ち着ける場所を見つけ、新しい画布に向かおうとする姿に、私はいつも希望を与えて貰いました。
両親の行動力、前向きさが、ここに至るまでの出会いに繋がったのだと、私は確信しています。
ですから私は、3月11日が訪れる度に、故郷を失った悲しみと同時に、新しい人やものへの出会いに改めて感謝しています。
ぽっかり空いた穴は埋められませんが、後悔だけで生きる人生は嫌なので……今後も、私の出来る範囲で、前向きに過ごしていければ。
3月31日は、父の命日。それもあって、色々と思いを書いてしまいましたが、考えを改める良い一日になりました。
乱文・長文、読んで下さりありがとうございました!
あくまで私の主観であり、人それぞれに事情も生い立ちも違いますので、あくまで一人の思いだと思って、そっと心に留めて頂けたら幸いです。
0コメント